『ゴリラ裁判の日』

主人公のローズは、メスのゴリラで、アメリカ式の手話ができる。さらに、彼女は、手話を音声に変換するグローブを利用することで英語での「会話」も可能だ。ローズは、自分の意思や感情を相手に伝えたり、軽口をたたいたり、罵倒したりする。これは私たちが日常的に言語でしていることだ。だから、人間と同等の知能があるとみなすことができるだろう。ある日、ローズのいる動物園で、男の子がゴリラパークの柵を越えてしまい、ローズの夫は人命救出のために射殺されてしまう。これを不服に思ったローズは、動物園の判断ミスを証明するために裁判を起こす。裁判では、人間の命を救うために、動物の命を犠牲にするという判断は正しかったのかが問われることになる。
いまのところの常識は、人間の命は動物の命よりも価値があるということになっている。私自身はこの常識を支持してないけれど、多くの人は人間の命は動物の命よりも価値があると考えているはずだ。だから、男の子の命を助けるためにゴリラが射殺されるのは仕方がない。しかし、なぜ、人間と動物で命の価値が違うのだろうか?たとえば、ピーター・シンガーは、動物も苦しんだり楽しんだりすることができるので、彼らの利益にも平等に配慮するべきだと主張する。この時、シンガーは、どれほど大きな苦痛を感じるかがポイントだと述べる。同じ力で、小さな子どもと馬を叩いたら、痛みは子どもの方が強く感じるだろう。また。高度な精神的能力を持つ生き物は、過去の経験やこれから起こることの予想や目の前で起こっていることを深く理解することで、より大きな苦痛を感じたりもする。たとえば、夜道でひったくりにあった人は、その経験から、夜に出歩くことに恐怖を感じるかもしれない(『ダーウィン事変』でチャーリーが人間の抱く恐怖について理解を深めるエピソードがあるが、あれを思い出すといい)。そうすると、たとえば、コアラとチンパンジーでは、チンパンジーの方が同じ出来事からより大きな苦痛を感じるだろうと推測されるので、チンパンジーの利益はコアラの利益よりも重視されることになる。
人間は言語を使用して苦痛や喜びを伝え合うが動物はそうではないので、同じ扱いをするのはおかしいと反論があるかもしれない。しかし、非言語的コミュニケーションをとる動物はいるし、私たちは通常、言語を操れない人間にたいして苦痛も喜びも感じていないなどとはみなさない。
しかも、ローズは言語を通じたコミュニケーションが可能だ。ローズの弁護士であるダニエルは、人間と動物との違いは複雑な言語体系の有無にあるのならば、それを学ぶことができたローズは人間と同等とみなすべきと主張する。だから、ローズには人権があり、ローズの夫のゴリラも人権を持ちうる存在であったので(たまたま手話の学習機会に恵まれなかっただけで、機会があればローズのように手話ができるようになったであろうから)、動物園にはローズの夫の死に責任があるのだとダニエルは陪審員に訴えかける。
ダニエルの弁論にローズは「屁理屈、詭弁」と言うが、私はそうは思わない。もちろん、言語による論拠よりシンガーの利益による論拠の方が説得力があるように思う。でも、納得できる人間らしさの特徴がノン・ヒューマンにも当てはまるのであれば、ノン・ヒューマンも人間と同等に扱うべきだろう。会話のできるAIやロボットが誕生したらどうするのか?もし言語による論拠が説得力をもち、その特徴を備えたAIが出現したら、そのときは当然AIも人間と同等に扱うべきである。当然である。

興味にあるテーマなのもあって大変面白く読んだ。あと、登場キャラクターがよい。ローズは手話を音声に変えるグローブをつけて人間と会話するのだが、グローブの音声はいつも冷静に話すし、ダーティー・ワードを登録してないので、ムカついてるのにムカついているトーンじゃないと不満に思い、唇をブーブー鳴らして無礼な態度を示す。それに、ローズの親友のリリー。彼女は韓国系アメリカ人のラッパーで、ローズから手話を教えてもらって悪態のつき方の新たな可能性を発見し喜ぶ。弁護士のダニエルもいい。「何があっても哲学者の言うことなんて聞いちゃダメだ。哲学を勉強しようと思う時点で、かなり頭が弱い奴らだ。」という。『グッド・プレイス』では地獄行きが決定しているし、哲学者は散々な言われようである。でも、ピーター・シンガーの議論は面白いから、『ゴリラ裁判の日』を読んで『ダーウィン事変』を読んで『動物の解放』を読むといいと思う。

『愛とラブソングの哲学』

恋愛・セックス・結婚を主題とする哲学研究がある。古くからあるが最近特に活発だ。エリザベス・ブレイク『最小の結婚』なんかがそう。この本もその一つとして位置づけられるはずだ。たとえば、第2章では愛の理由について検討されている。愛に理由があるのだろうか?ある派は私たちの日常的なコミュニケーションのあり方から「ある」というだろう。なぜなら、多くの人は自分の恋人を好きになった理由を「映画の話で意気投合したから」「落ち込んでいた時に親身になってくれたから」などと正当化するからだ。でもそうすると、じゃあ映画に関してもっと意気投合できる別の人が現れたらその人に乗り換えるのかという疑問がわく。「そうだね、乗り換えるね」という人もいるだろうが、たいていの人はそんなことはしない。それでは、理由がないと考えるべきかというとそれも少しおかしい。なぜなら、感情には理由があるからだ。たとえば、人が悲しんでいる時にはそれを引き起こす理由があるはずだ。

これに対して、本書は、第1章で愛は相手にたいする感情や思考や行動などを生み出す潜在的な状態だと示す。そのうえで、第2章で愛は理由のないものだと論じている。これで、愛に理由はない派の懸念点は回避される。なぜなら、愛は感情ではないと示しているからだ。さらに、愛に理由があるとしたら、その第一候補は相手への愛が自分のアイデンティティとなっているからだというアイデンティティ説があるが、筆者はこれは良い説明ではないという考えを示している。わたしはアイデンティティによる説明は悪い説明だと思わないので、これでいいのではと思うのだが、とにかくとても面白い議論だし、よい哲学の入門書だと思う。

おばあさんと若い娘が事件を解決する

エリザベス女王の事件簿 ウィンザー城の殺人』を読んだ。ウィンザー城内で殺人が起き、警察やMI5はロシアのスパイの犯行とみなすが、エリザベス女王の見立ては違う。そこで、女王は、女性秘書官補の助けを得て、事件の真相を明らかにしようとする。

聡明な老婦人が若い女性の助けを借りて、殺人事件の真相を暴くと言えば『パディントン発4時50分』である。パディントンでは、ミス・マープルの友人が殺人を目撃するも「空想と現実をごっちゃにしている(おばあさんがよくやるやつ)」と相手にしてもらえない。エリザベス女王も本書である意味「相手にされない」。周囲のスタッフからすると女王はお守りすべき存在である。なにせ高齢の女王であるので、ご心労をかけないような対応をする。しかし、これは裏を返すと、問題を解決するために意見を出し合うような対等者として存在してないということだ。たとえば、MI5の長官は女王のことを「現代社会の複雑さを理解できるはずがない」とみなしていると女王は思っている。

パディントンでのミス・マープルとその友人もたいがいは対等な存在とみなされない。マープルの友人は、殺人を目撃したと訴えても、話をまともに取り合ってもらえない。おばあさんの空想だと思われる。しかし、マープルは、現実社会とそこに生きる人間をよく理解している。彼女は、友人が現実と空想を混同するような人ではないと判断し、実際に殺人が起きたのだろうと推測する。しかし、たいていの人は、おばあさんの話を取るに足らないものと思い込むので、このおばあさんたちの声は聞こえない、聞く必要のないものとみなされている。マープルたちの話を聞いてくれるのは、マープルの能力を正当に評価できる人だけだ。

一方、女王は違う。彼女の声は大きく、周囲に強く影響を与えるだろう。だから、エリザベス女王は真相にたどり着くも、彼女の口から事件の詳細が明かされたりはしない。なぜなら、彼女は女王だからだ。一方、パディントンではミス・マープルの口から事件の全貌が明らかにされる。話をまともにとりあってもらえないおばあさんが事実を突き止めて事件の詳細を明らかにする。『エリザベス女王の事件簿』も『パディントン発4時50分』も聡明な老女が自由が利かないので若い娘の手を借りて事件の真相を暴こうとするお話である。しかし、両者の声は大きく異なる。

 

ポトフを翻訳する

トランスレーションズ展でみた永田康祐の「Translation Zone」が面白かったのでその感想。

翻訳とは、ある言葉を別の言語に置き換えることで、それを機械的におこなえば、たとえば英語で書かれてた文章と等しい日本語の文章が出来上がると思われがちだ。でも、実際の翻訳はそんな単純な話ではなく、だからこそ、翻訳学のなかで等価が重要な概念となっているのだと思う。等価は大きく2つにわけることができる。1つは元のテキストの形式や内容に沿うという意味での等しさを志向する形式的等価で、それに対して、動的等価とは目標言語の文化や慣習に合わせた等しさを求める。

「Translation Zone」で翻訳の1つとして取り上げられていた分子ガストロノミーは、形式的忠実さを放棄して科学的観点から望ましい料理をする。だから、ローストビーフジップロック真空パックにして湯煎する。玉村豊男の料理の四面体でローストとは火と空気のラインに位置していたはずなのに、ジップロックで空気を抜いてお湯へドボンだし、じゃあ、火と水の煮物ラインかというと液体には触れていない。ローストしなくてもローストビーフは作れるし、ローストしてないローストビーフはローストしたローストビーフより理にかなっており、おいしいのだろう。これは文化や慣習に合わせるのではなく科学的知見に合わせた「動的等価」のように思える。

しかし、わたしは日本で生活し、レシピを探すなら「きょうの料理」が一番と言いながらも、残った厚揚げをどう食べようかとグーグルで検索して上位にでてくるクックパッドのレシピをながめたりしているのだ。焼かないローストビーフと聞けば科学的観点からの調理法ではなく、家庭で簡単にできるよう改造されたやつ、つまり『きのう何食べた?』の佳代子さんのローストビーフを思い出すわけだ。「Translation Zone」でもう1つの翻訳として取り上げられているのはこの種のブートレグ・レシピだ。ライスヌードルが手に入りにくいからうどんでお手軽にパッタイを作るのだ。分子ガストロノミーでは還元主義的観点から元々の料理の方法を無視するが、インターネットに遍在するブートレグ・レシピは社会的要因や所帯じみた理由から生み出される。

この作品の解説に「料理という行為を科学的に突きつめてみれば、日本のおでんとフランスのポトフは同じものとして定義できる」と書かれている。料理の三角形や料理の四面体を思い浮かべてこれらを位置づけるとそうかなとは思う。どちらも野菜と動物性たんぱく質の入った煮物で間違ってはいない。

でも、フランスにおでんはないから想起されるイメージが違う。そうすると、おでんを「Japanese pot-au-feu」などと言いたくなってくるけど、それもまたしっくりこない。なぜなら、イナダシュンスケの呼ぶところの日式ポトフが存在するから。多くの人が思い浮かべるポトフは、ソーセージやベーコンにコンソメキューブにキャベツの入ったスープで、これもブートレグ・レシピだ。それに対して、pot-au-feuは大きな塊肉と人参やセロリや玉ねぎなどで構成されていて、両者は同じと言うのにわたしは躊躇いを覚える。だって、ポトフを頼んでpot-au-feuがでてきたらびっくりするでしょ。わたしは心の狭い原理主義者だからpot-au-feuのつもりだったのにポトフが出てきたら、シャウエッセンが食べたかったわけじゃないのにと思う。

ポトフと pot-au-feuは別物だし、わたしは pot-au-feuが好きで、キャベツが入っていたり、ごぼうを入れたり程度の改変はいいけれど、自分でシャウエッセンを入れて作ろうとは思わない。うどんでパッタイとかそれはもうパッタイではないのではないかと思うし、桃モッツアレラを桃缶で作ったら、それは別の食べ物だ。それに、翻訳小説にでてくるクールエイドがバイヤリースに変わっていたら嫌だ。少なくとも、固有名詞に関して、わたしには形式主義的で原理主義的面があるなと思った。

 

 

リズ・レモンはルンバを使えるのだろうか?

 ようやく骨折が治った。骨折をしていきなりEDM耳になってチェーンスモーカーズとか聴きだしたらどうしようと心配していたけど、相変わらずやつらのことは嫌いだし、テカシはなんであんなファッションなのかさっぱりわからないままで、自分を保てているようでホッとしている。

 そして、この間に、もう何年も買おうかと悩んでいたルンバを買った。ルンバ使用者である友達に様々な懸念事項を何度も話し、その度に「あなたが心配しているようなことはすでにiRobotが対策を考えている」と諭され、消費税増税でも決断しなかったけれど、もう骨折したくないからルンバを買った。また、掃除機をかけていてコードに足を引っかけてつまずいて骨が折れるとか絶対にいやだ。

 「30 ROCK」というドラマでティナ・フェイ演じるリズ・レモンは掃除ができない女だ。なんでかというと、子供のころパパとけんかをするとママが掃除機をかけていたため、掃除機の音を聞くと神経が昂るから。彼女は部屋の掃除を絶対にしない。そう告白するリズにフロイドは「ルンバは静かに掃除してくれるよ」というとてもロマンチックなシーンがある。実際のルンバは予想よりずっとうるさい。だけど、わたしは掃除機の音がいやなのでなくコードに足を引っかけてまた骨折したくないから、うるさくても満足している。

 

 

 

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勉強するとか研究するとか

 あいかわらず続けているオンライン積読会というか本の話をする集い、前回は英語学習本をテーマに話をした。いままで散々小説の話をしていたのに、なぜ突然英語学習本なのか?それは毎回参加しているうちのわたしを含めた3人がなんだかんだずっと英語を勉強しているからだ。なので、英語学習本定番ものについて話したり、変わり種を教えてもらったりしてた。たとえば、わたしは『どんどん話すための瞬間英作文トレーニン』があまり好きではなくて、なぜかというと「あのきれいな女の人は誰ですか?―スミスさんです」とか全然楽しくない。でも、わたしは喋るの、特に雑談みたいなのが全然できないからこういうのをやった方がいいのでは?という気もするんだけど、なんでこんなに英語の能力が読み書きとリスニングに偏重しているかというとそれが楽しかったからで、「このりんごはあのりんごより大きい」とかやってるとだんだん飽きてくる。楽しくない。そして、どうせ日本語でも相当親しくないと雑談とかできないし、第一言語でできないことは第二言語でもできるわけがないのでは?どうせわたしは雑談のできない女と開き直ることになる。このように「退屈だから好きじゃない」と話したら、友人が筋トレ感もそれなりに重要なのでは?と言っていて、そういわれると確かになとなるわけだ。大学受験時に桐原書店の英文法とかの参考書をたまに無心でやってたし、あれは確かに筋トレっぽかったし、なんだかんだ覚えているしと、あまり気が付いていないだけで、あの筋トレの蓄積がいまにつながているはず。だから、後日、『瞬時英作文』を本棚の奥から机の横に移動させた。まだやってないけど。

 で、わたしたち3人がごちゃごちゃ話しているのを聞いていた別の友人が終盤にボソッと「大人でもこんなに勉強するんだ」と言っていて、そうか!世の大抵の大人は勉強しないのか!となった。もちろん、全くしないと思っているわけではなくて、わたしたちのように英語などの他言語を勉強している人もいるだろうし、資格や昇進のために勉強したりもするだろう。というか、「大人でもこんなに勉強するんだ」といった友人も勉強をどの範囲でとらえるかによっては勉強していることになるのではないかと思う。

 そして、じゃあ勉強するってなんだよと疑問がわくわけだ。わたしはたぶん大人になっても勉強している部類に入る。だいたい論文を書いたり(というか書こうと努力をしたり)、書くために別の論文を読んだりしているから。あと、いわゆる仕事をしている時も、仕事をしてるんだか勉強をしてるんだか研究をしてるんだかよくわからないような時がある。勉強はわかっていることを学ぶことだけれど、研究はわかっていないことを発見したり解決したりすることなどと両者の違いが説明されるが、じゃあ、わたしが日常でしていることはこんなにきっちり分かれているのか疑問だ。

 英語学習本の会で話したようなことはたしかに勉強していると言える。でも、仕事で訳語を考えるときはなんなんだろうと思う。それは「仕事をしている」なのだといわれるとそうなんだけど、これまでどう訳されてきたのかとか調べたりもするわけで、自分の専門と違ったりすると「こんな話があるんだ」とciniiとか検索しだすので、わたしとしては勉強してる感がなくもない。論文を書く時もそう。関連論文を読んでいるときは研究しているのか?それとも勉強しているのか?わたしにはどちらでもあるような気がしてしまう。だって、他人の論文を読んで理解しようと努めるわけだからこれは先ほどの区分でいうと勉強になるのではと思うし、でも論文を書くために読んでたりするので「なるほどこの著者はこう議論してるのだな」と把握するだけじゃなく、これが自分の議論にどう使えるのかとか考えるわけで、それは研究に近いのではないかという気がする。じゃあ、論文を実際に書いている時はどうかというと、これは勉強しているのではない。でも研究しているのかと問われると困ってしまい、「書いている」というのが一番しっくりくる。もうちょっと詳しく書くと「書かなければならないことがあるのだけど、それを言い表したり説明したりするための適切な言葉を考えたり何度も書き直したりしている」になる。

 あと、本やドラマや映画をきっかけに論文を読みだしたりする。たとえば、コニー・ウィリスの『ドゥームズデイ・ブック』を読めばペストの歴史研究の論文を掘り起こしてくるし、「ブレッチリー・サークル」を観れば戦中の労働力としての女性に関する文献を探すし、『ブラックアウト』と『オール・クリア』を読めば戦中の生活のイメージを確認したくて「刑事フォイル」をまた観る。この時わたしはなにをしているのか?趣味の時間を過ごしているのだけど、なんだかお勉強っぽいことがそのすぐ隣にあるし、さすがに歴史研究はできないけれど「ダイエットランド」を観てファット・アクセプタンス運動の文献を読むと、なんとかしてこれで一本論文をかけないものだろうか?と皮算用というか、貧乏くさいことを考えたりしてる。

 だから「大人も勉強する」問題を考えると、じゃあわたしはいつも何をしているのだろうか?勉強してるのか?研究してるのか?なんなんだ?と混乱する。で、いまのところ、わたしが質問に答えるとしたら「なにか読んでるか、なにか書いてるか、なにか観ている」になる。少なくとも、ここに混乱はないし、嘘もついていない。

 

 英語学習音の会で話に出た面白そうな本が軒並み絶版なので、話に出た本張り付けると味気ない。

 

DUO 3.0

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日常のごはんを作る

 この日記を書き始める少し前にポトフを作って食べたいという欲求がどこからか湧いてきて、いきなりポトフを作り、最終的に原理主義的ポトフにたどり着いた。最近だと、殊能先生の日記で知った豚とアサリのアレンテージョ風を3回作った。具体的には、わたしが勝手にトマトを加えていた版と殊能先生の日記を思い出して作った版と豚肉をパプリカでちゃんとマリネした版だ。豚肉とアサリなので余程のことをやらかさない限りどれもおいしいし、これからもたまに作ると思う。でも、これらはすべてわたしにとっては非日常のごはんで、イベントとして料理の料理である。

 特に意識したわけではないけれど、在宅勤務になってずっと家にいるから大嫌いな家事と隣り合わせの生活になり、日常の雑事のわずらわしさから離れたくて、わたしはこうした料理を作るのだと思う。といっても、実際の家事なんて特に増えてない。わたしは一人で暮らしているから誰かが家にいることでの負担はせいぜいクイックルワイパーの頻度が増えた程度だし、なにをどうしようと自分のためにするので、家事に追いつめられることはないはずだ。だいたい、わたしはなによりずっと一人で家にいるのが好きなので、家事のわずらわしさと相殺してもよさそうだ。でも、一人でも家で仕事や研究をしていると大嫌いな家事がずっとこっちを見ている。たとえば、以前なら、お昼はお弁当を持っていっていたので食べた後にウェットティッシュでさっと拭いて夕飯後の洗い物までお弁当箱のことを忘れていられた。でも、いまだと、お昼ごはんを食べ終えた後の食器がすぐそこのキッチンに放置されるわけで、洗わなければ!と駆り立てられる。同様に、洗濯物も週末にまとめてすればいいという状態から、今日わたしは洗濯をした方がいいのではないだろうか?と平日に考えてしまう。これが本当に面倒で嫌でうんざりする。気にしなければいいと言われればそうなんだけど、何事も気にする気質なので気にするなとか無理で、ちょこちょこ家事をやって、疲弊する。だから、ごはんを作るという必要に迫られた行動を特段必要でない感じにしたいのだと思う。

 でも、こうした生活の中で、いままで作っていたようなごはんを食べると本当においしいなと思う。もちろん、ポトフも豚とアサリのアレンテージョ風も十分おいしいのだけど、塩麹につけた肉やら魚を焼いて、えのきとネギで味噌汁を作って、ゆでたブロッコリーやトマトつけるとか、そういうのはおいしくて安心する。こういう食事が必要。パセリを刻むのが面倒なのだけどトマトとパセリのサラダが好きなのだけど、上記のトマトがこういうサラダになるとワインを開けるかという気分になって楽しい。あと、アスパラガスとしいたけを塩コショウで痛めただけでなんでこんなにおいしいのだろう、このままずっとビールを飲みながらこれを食べていたいとか思う。

 こうやって、家事にうんざりしてイベントとしての料理に逃げて、ああわたしが毎日お弁当とかで作ってた料理はそれなりにおいしいのだなと思い、また週末にイベントとしての料理をするのだろう。