ポトフを翻訳する

トランスレーションズ展でみた永田康祐の「Translation Zone」が面白かったのでその感想。

翻訳とは、ある言葉を別の言語に置き換えることで、それを機械的におこなえば、たとえば英語で書かれてた文章と等しい日本語の文章が出来上がると思われがちだ。でも、実際の翻訳はそんな単純な話ではなく、だからこそ、翻訳学のなかで等価が重要な概念となっているのだと思う。等価は大きく2つにわけることができる。1つは元のテキストの形式や内容に沿うという意味での等しさを志向する形式的等価で、それに対して、動的等価とは目標言語の文化や慣習に合わせた等しさを求める。

「Translation Zone」で翻訳の1つとして取り上げられていた分子ガストロノミーは、形式的忠実さを放棄して科学的観点から望ましい料理をする。だから、ローストビーフジップロック真空パックにして湯煎する。玉村豊男の料理の四面体でローストとは火と空気のラインに位置していたはずなのに、ジップロックで空気を抜いてお湯へドボンだし、じゃあ、火と水の煮物ラインかというと液体には触れていない。ローストしなくてもローストビーフは作れるし、ローストしてないローストビーフはローストしたローストビーフより理にかなっており、おいしいのだろう。これは文化や慣習に合わせるのではなく科学的知見に合わせた「動的等価」のように思える。

しかし、わたしは日本で生活し、レシピを探すなら「きょうの料理」が一番と言いながらも、残った厚揚げをどう食べようかとグーグルで検索して上位にでてくるクックパッドのレシピをながめたりしているのだ。焼かないローストビーフと聞けば科学的観点からの調理法ではなく、家庭で簡単にできるよう改造されたやつ、つまり『きのう何食べた?』の佳代子さんのローストビーフを思い出すわけだ。「Translation Zone」でもう1つの翻訳として取り上げられているのはこの種のブートレグ・レシピだ。ライスヌードルが手に入りにくいからうどんでお手軽にパッタイを作るのだ。分子ガストロノミーでは還元主義的観点から元々の料理の方法を無視するが、インターネットに遍在するブートレグ・レシピは社会的要因や所帯じみた理由から生み出される。

この作品の解説に「料理という行為を科学的に突きつめてみれば、日本のおでんとフランスのポトフは同じものとして定義できる」と書かれている。料理の三角形や料理の四面体を思い浮かべてこれらを位置づけるとそうかなとは思う。どちらも野菜と動物性たんぱく質の入った煮物で間違ってはいない。

でも、フランスにおでんはないから想起されるイメージが違う。そうすると、おでんを「Japanese pot-au-feu」などと言いたくなってくるけど、それもまたしっくりこない。なぜなら、イナダシュンスケの呼ぶところの日式ポトフが存在するから。多くの人が思い浮かべるポトフは、ソーセージやベーコンにコンソメキューブにキャベツの入ったスープで、これもブートレグ・レシピだ。それに対して、pot-au-feuは大きな塊肉と人参やセロリや玉ねぎなどで構成されていて、両者は同じと言うのにわたしは躊躇いを覚える。だって、ポトフを頼んでpot-au-feuがでてきたらびっくりするでしょ。わたしは心の狭い原理主義者だからpot-au-feuのつもりだったのにポトフが出てきたら、シャウエッセンが食べたかったわけじゃないのにと思う。

ポトフと pot-au-feuは別物だし、わたしは pot-au-feuが好きで、キャベツが入っていたり、ごぼうを入れたり程度の改変はいいけれど、自分でシャウエッセンを入れて作ろうとは思わない。うどんでパッタイとかそれはもうパッタイではないのではないかと思うし、桃モッツアレラを桃缶で作ったら、それは別の食べ物だ。それに、翻訳小説にでてくるクールエイドがバイヤリースに変わっていたら嫌だ。少なくとも、固有名詞に関して、わたしには形式主義的で原理主義的面があるなと思った。