13日目

 いつも通り、朝起きてお水飲んで紅茶を入れる。午前中に仕事の打ち合わせがあったので、今日は朝から会議が開かれるまで資料を見直して、打ち合わせで今後の相談をして午前中が終わった。

 午後、論文を書き進める。途中、集中力が切れてTwitterを見ると、友人たちが「政府は優先順位の高いもんを助けて、低いもんはどうして」というサッカー選手のツイートにブチ切れていた。わたしはこのサッカー選手を知らないし、男性スポーツ選手なんてだいたいマッチョで「男らしさ」の悪いところを煮詰めた反知性主義者だという偏見があるので黙れバカとしか思えないのでこの男の発言は無視するにしても、優先順位がどうこうという話は最近書いたり読んだりしていることなので、メモを残しておく。繰り返すけど、上記のサッカー選手の発言は関係ない。

 基本的に医療に関係する物的資源や人的資源などは有限だからで希少なものとなる。だから、みんなが希望するように医療資源を得ることは難しい。現実的には、予算や人員の制限があるから望むとおりは無理だよということになるのだけど、かりに現実での物的・人的資源に制限をかけている要素を取り除いたとしても、やはりみんなが思うがままというのは難しい。なぜなら、健康はその人固有のもので、尽きるときには尽きてしまうものだから。おそらく、わたしたちが健康を価値があると思っているのは、それが人生を豊かにする重要な要素の一つだからで、そうした価値が失われたとき、それでも医療資源を提供し続けるべきというのには異論が生じるだろう。

 だから、なんらかの基準にしたがってだれにどうなにを提供するか必要がでてくる。その際、質調整生存率(QALY)などを用いて効率性を追求する方法があるけれど、こうした費用対効果を用いた基準は万能とは限らず、オレゴンヘルスプランのように奇妙な判断をしてしまうこともあるし、そもそもたとえば慢性的な疾患を抱えた人の人生を低く見積もってしまうという致命的な欠陥があるように思う。あと、どういう基準に基づくべきかを考えたとき、効率性の追求だけでなく公平性も追求する必要があって、じゃあそっちの基準は?という疑問も生じる。少なくとも病気の重症度とか治療から期待される効果とかそうしたことが基準を構成する要素になるのだろうけど、たとえばそこに年齢が入るとどうだろう。実際に、新型コロナの治療に際して、高齢者の治療の優先度が下がるという話もある。現実に医療スタッフも医療機器も限られたなかでこうした選択をせざるをえないということと、規範的に年齢により治療の優先度を変えるべきというのは別の話で、後者について公平でないと批判が生じうる。なぜなら、わたしたちが歳をとるのは不可抗力で、基本的に年齢が上がれば上がるほど健康でなくなりそれだけ治療を受ける必要がでてくるから。しかし、治療に際して優先順位をつけるというとサイコパスじみて聞こえるだろうが、どんな基準で医療資源を提供するかという話は検討すべき論点ではあるのだ。ただ、もう一回書いていくけれど、どこかのサッカー選手はそんなこと考えていないし、そもそも政府は社会保障を提供すべき立場なのに優先度の低い者たちは相互扶助ってありえない。