女が車を運転するということ

 先日コニー・ウィリスの『ブラックアウト』と『オール・クリア』を読み終えた。オックスフォード大学の3人の史学生がそれぞれの研究テーマに基づき直接観察するために時間旅行で第二次世界大戦に向かったが、ロンドン大空襲の最中、元の時代に戻るための降下点が使えなくなり(だから戻れない)、未来に何か起きたのかと恐れつつ、なんとか帰る術を模索するというのがこのお話の骨格。

 戦中、男は戦地に駆り出されるので、女性は社会進出する一方で、フェミニズム運動は下火になる。第一次世界大戦時にサフラジェットたちが運動を休止し工場労働や運転手を務めることで戦争協力をしたように。たしか「ダウントン・アビー」でも戦争により参政権運動の話が宙ぶらりんのまま、女性参政権運動の集会に参加していたシビルは看護師として働き、ついでにイーディスは車の運転を覚えた。エリザベス女王も戦中は救急車の運転手を務めていた。1940年に降り立った史学生のアイリーンも爆撃があったときに救急車の運転手を務められるように車の運転を習う。

 こうした活躍を終えた後、戦争が終わり男たちが戻ってくると女性は「社会」の隅にまた追いやられる。「エージェント・カーター」でペギー・カーターは事務仕事をする女になるし、「ブレッチリー・サークル」では暗号解読していたスーザンが家事と育児の合間にクロスワードパズルを解いている。

 女が車を運転するというのは自由を得る一つの象徴のようにも思う(戦争協力という名の戦時下の女性の社会進出ではあるけれど)。山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』に収録されている「君がどこにも行けないのは車持ってないから」で運転免許によりえられる自由について書かれているし、長谷部千彩は『有閑マドモワゼル』で自分で運転することの解放感について触れている。あの大きなだいたい四角い動くかたまりはたぶん自由の象徴のみなすこともできるのだろう。

 でも、わたしには自由ではなく恐怖の象徴だ。わたしは車が怖い。車の運転は男に任せてわたしは助手席になどと思ったことはない。だって、助手席に座るのも怖いから。走るとビュンビュンと目の前の景色が変わり、すごく怖い。ジェットコースターに乗っているみたい。以前、研究室でこの恐怖について話をしたとき、ほかの人たちは車が必須の地方出身者だったので「スピード狂の男と付き合ってたんだ大変だったね」とわたしのイメージが不当に損なわれて大変腹立たしかったのだけど、まあ、分かってもらえないよなとは思う。彼らにとって車は日常だけど、わたしにとって車は明け方まで遊んだあとに乗るタクシーか、なにか本当に特殊な事情が発生したときだし。そもそも遊園地のたいていの乗り物はわたしにとっては速くて怖いのだからだから車は怖いに決まってる。これと同じように、ほとんどの人にさっぱり理解されないわたしの恐怖としては一戸建てが怖いというのがあって、同じ家の中に別の階があるのが不気味だし、家の外と中の境目を乗り越えるのがマンションよりずっと容易に思えて、なにかがやってくるのでは、なにかに見られているのではとノイローゼになりそう。

 自分で運転してしまえばそんな恐怖を抱かなくなるのでは?とも思うのだけど、そうすると今度は「女性は車の運転が下手なのは本当?」とか「運転手が女性と推測される車は煽られる」とか絶対に関わりたくないクソどうでもいい話に自分が巻き込まれる感じがして、うんざりしてくる。だから、疲れて明け方タクシーで帰り、車は怖いし道は分からないしと緊張するから眠気も酔いもすっかり飛び(なんとか通りからほにゃらら街道に行くのでいいんですよね?とかわたしに聞かないでほしい)、「そこのセブンイレブンのあたりで降ろしてください」と家から少し離れたコンビニまで運んでもらうくらいの関係でしばらくはいたいなと思う。

 

 

ブラックアウト(上) (ハヤカワ文庫SF)
 

 

 

ブラックアウト(下) (ハヤカワ文庫SF)
 

 

 

オール・クリア(上) (ハヤカワ文庫SF)

オール・クリア(上) (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

オール・クリア(下) (ハヤカワ文庫SF)

オール・クリア(下) (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)