女が車を運転するということ

 先日コニー・ウィリスの『ブラックアウト』と『オール・クリア』を読み終えた。オックスフォード大学の3人の史学生がそれぞれの研究テーマに基づき直接観察するために時間旅行で第二次世界大戦に向かったが、ロンドン大空襲の最中、元の時代に戻るための降下点が使えなくなり(だから戻れない)、未来に何か起きたのかと恐れつつ、なんとか帰る術を模索するというのがこのお話の骨格。

 戦中、男は戦地に駆り出されるので、女性は社会進出する一方で、フェミニズム運動は下火になる。第一次世界大戦時にサフラジェットたちが運動を休止し工場労働や運転手を務めることで戦争協力をしたように。たしか「ダウントン・アビー」でも戦争により参政権運動の話が宙ぶらりんのまま、女性参政権運動の集会に参加していたシビルは看護師として働き、ついでにイーディスは車の運転を覚えた。エリザベス女王も戦中は救急車の運転手を務めていた。1940年に降り立った史学生のアイリーンも爆撃があったときに救急車の運転手を務められるように車の運転を習う。

 こうした活躍を終えた後、戦争が終わり男たちが戻ってくると女性は「社会」の隅にまた追いやられる。「エージェント・カーター」でペギー・カーターは事務仕事をする女になるし、「ブレッチリー・サークル」では暗号解読していたスーザンが家事と育児の合間にクロスワードパズルを解いている。

 女が車を運転するというのは自由を得る一つの象徴のようにも思う(戦争協力という名の戦時下の女性の社会進出ではあるけれど)。山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』に収録されている「君がどこにも行けないのは車持ってないから」で運転免許によりえられる自由について書かれているし、長谷部千彩は『有閑マドモワゼル』で自分で運転することの解放感について触れている。あの大きなだいたい四角い動くかたまりはたぶん自由の象徴のみなすこともできるのだろう。

 でも、わたしには自由ではなく恐怖の象徴だ。わたしは車が怖い。車の運転は男に任せてわたしは助手席になどと思ったことはない。だって、助手席に座るのも怖いから。走るとビュンビュンと目の前の景色が変わり、すごく怖い。ジェットコースターに乗っているみたい。以前、研究室でこの恐怖について話をしたとき、ほかの人たちは車が必須の地方出身者だったので「スピード狂の男と付き合ってたんだ大変だったね」とわたしのイメージが不当に損なわれて大変腹立たしかったのだけど、まあ、分かってもらえないよなとは思う。彼らにとって車は日常だけど、わたしにとって車は明け方まで遊んだあとに乗るタクシーか、なにか本当に特殊な事情が発生したときだし。そもそも遊園地のたいていの乗り物はわたしにとっては速くて怖いのだからだから車は怖いに決まってる。これと同じように、ほとんどの人にさっぱり理解されないわたしの恐怖としては一戸建てが怖いというのがあって、同じ家の中に別の階があるのが不気味だし、家の外と中の境目を乗り越えるのがマンションよりずっと容易に思えて、なにかがやってくるのでは、なにかに見られているのではとノイローゼになりそう。

 自分で運転してしまえばそんな恐怖を抱かなくなるのでは?とも思うのだけど、そうすると今度は「女性は車の運転が下手なのは本当?」とか「運転手が女性と推測される車は煽られる」とか絶対に関わりたくないクソどうでもいい話に自分が巻き込まれる感じがして、うんざりしてくる。だから、疲れて明け方タクシーで帰り、車は怖いし道は分からないしと緊張するから眠気も酔いもすっかり飛び(なんとか通りからほにゃらら街道に行くのでいいんですよね?とかわたしに聞かないでほしい)、「そこのセブンイレブンのあたりで降ろしてください」と家から少し離れたコンビニまで運んでもらうくらいの関係でしばらくはいたいなと思う。

 

 

ブラックアウト(上) (ハヤカワ文庫SF)
 

 

 

ブラックアウト(下) (ハヤカワ文庫SF)
 

 

 

オール・クリア(上) (ハヤカワ文庫SF)

オール・クリア(上) (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

オール・クリア(下) (ハヤカワ文庫SF)

オール・クリア(下) (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

豚肉とあさりのアレンテージョ風前日話

 これは、豚肉とあさりのアレンテージョ風を作る前段階の話です。

 ウィリアム・ギャディスの『JR』という金融ブラックコメディの邦訳が一昨年ようやく出た。多くの人と同じ殊能将之が日記で本書を知り、邦訳は8000円以上するのでホイホイ本を買うわたしでも少しためらい、けれど、これを逃すともっと高値がつきより手を出しにくくなるとだろうと、えいやと買った。900ページ以上あるのでやっぱり物理的に読むのは一苦労なのだけど、パラパラめくったり眺めて喜んだりしてるだけでとても楽しいのだが、せっかく買ったのだから誰かに自慢したい。なので、積読会で「ほらすごいでしょ?」と見せびらかしてわたしだけ大変満足したのだけど、なぜか殊能先生の日記の話になって、ああそういえば、日記に書いてあった料理を作ったりしたなと思い出した。たしか、殊能先生はよく料理に関する記述をしていて、そのなかに豚肉とあさりを炒め煮みたいにした料理があって大変おいしそうだった。わたしは、これを初めて作った時にはイタリアでは肉と魚介を一緒に料理しないと知らなかったのでイタリアとかの料理なのかなとか思いながら作って食べて、ワインを飲んだりして満足していた(本当はポルトガル料理)。

 で、久々に作ろうと検索をして、豚肉とあさりのアレンテージョ風という名前だと判明したわけなのだけど、ついでに、わたしは殊能先生の創作レシピをさらに創作してなぜか勝手にトマトを加えていたことも分かった。なんでこんなことになったのかというと、おそらく何度か作るうちに「トマトを入れてみたら美味しいかも?」とか考え、その結果に満足してそのままトマトを加え続けていたのだろう。わたしは、トマトを加えればたいていのものは美味しくなると思っているし、自分で食べて満足するから。豚肉、あさり、トマトの組み合わせはまずくなるはずがない。でも、せっかく殊能先生の日記の話をしたのだからなるべく本来のレシピに忠実に作ろうと、この料理の元ネタであるらしい玉村豊男の『料理の四面体』を読んだ。

 結論から言うと、『料理の四面体』に豚肉とあさりのアレンテージョ風は出てこない。おそらく書籍だと『健全なる美食』の方なのではと思う。けれど、この本はとても面白い。第一章を例にすると、まず、筆者がアルジェリアで食べた羊肉のシチューの話から始まり、いかに一見適当に作られた調理法が理にかなっているかを説明していく。ここで筆者が述べる調理法というのはたぶん自分で料理をする人はなんとなく身に着けていたり、あのレシピだと同じことをやっていたなと思い浮かべるような類のものだったりする。具体的には、汁に浸して煮る前に肉などの煮るものを焼く。なんだったら焼く前にお酒などでマリネしておく。そして、しっかり焼いてから煮る。煮る際には、鍋などにこびりついた焦げをこそげ取る。それも旨味になるから。だからちょっとくらい焦げてしまっても鍋に肉がくっついてしまってもあんまり気にしなくていい、という話は『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』にも書かれていたはずだ。

 たとえばわたしはビーフシチューを作ることは好きなのだけど(作るのは好きだけど何日も食べるのは好きじゃない)、ほぼここで述べられている手順を踏んでいる。あと、豚の角煮とかもそう。だけど、この調理法で「ああだからわたしはこの作り方を選んでいたのだ」と一番思ったのはアクアパッツア。魚をそのまま煮るやり方もあるけれど、アクアパッツアを作るとき、わたしはいつも魚を焼いてから煮る。焼いてから取り出して、白ワインとトマトを入れてくたってきたらアサリを入れて魚を戻して、温まったら食べる。いままでなんとなくやってきたことの一部の理由が分かるのはとても面白いし、こうした手法をほかにも応用することが可能だとするこの本の趣旨は料理の世界が広がる。

 あと、わたしの持っている『中公文庫』のまえがきには「いまから三十年前、東京都港区三田の明王院というお寺の境内にあるマンションの一室で、三十四歳の私は、料理本がいっぱいの本棚に囲まれながら、この本を書いた」(p. 3)とある。その上で、調理手法を応用するという文脈で「ソース・クルヴェット・シャンピニョン・ピーコック」(p. 35)というソース名を筆者はつけているのだけど、このピーコックというのはスーパーマーケットの名前で、おそらく魚籃坂のピーコックのことではないかと思う。いまはできないけれど、わたしはあのあたりをよく散歩していて、住んでいたマンションというのは桜田通り沿いのやたらお寺のある一角なんだろうなとか、思い出した。

 ただ、帯についている「料理本にして「論理的思考が学べる奇跡の書」とか全く余計だと思いますけどね!論理的思考を学びたければ野矢茂樹の本とかいろいろあんじゃないんですかね!

 

 

JR

JR

 

 

 

殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow

殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow

  • 作者:殊能 将之
  • 発売日: 2015/06/25
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

料理の四面体 (中公文庫)

料理の四面体 (中公文庫)

  • 作者:玉村 豊男
  • 発売日: 2010/02/25
  • メディア: 文庫
 

 

 

健全なる美食 (中公文庫)

健全なる美食 (中公文庫)

  • 作者:玉村 豊男
  • 発売日: 2002/11/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

 

積読会

 正確な組み合わせは忘れてしまったが、『ギルモア・ガールズ』でローリーは長編小説と短編小説と詩集と自叙伝をリュックに入れて通学していた。なんでこんなに本を持ち歩くか?長編小説が読みかけだけれど、読み終えたり、そうでないものが読みたくなったら困るからだとローリーは言う。わたしも同じで、研究で読む本や論文を除いたとしても、数冊同時に読み進めている。具体的には、数週間前に『LESS』を読み始めたけれど、それはほぼ放置してコニー・ウィリスの『ブラックアウト』を読み出し『オール・クリア』の上巻まできた。それと並行して『ゾンビ襲来』を再読している。こうやって読んでいると、「しばらく放置」が「完全放置」になり、そのうちほかの本を読みだして忘れてしまう。放置したり忘れてしまったりするのは面白くないからというわけでは必ずしもなく、でもなにか理由があったりする。

 先日、友人たちとオンライン積読会をした。オンライン積読会というとオフライン積読会もあるように思えるが、わたしたちは蔵書をすべて持ち歩けるわけではないのでオンラインでしかできないのではないかと思う。買ったけれど(もしくは、もらったけれど)読んでないのだから、読んでない理由が当然あるわけで、なんとなくだけれど読書傾向を知っている友人のそういう話を聞くのは興味深い。たとえば、妖怪が好きな友人は『ルー=ガルー』をSF小説だから放置しているという。そりゃそうだ。百鬼夜行シリーズを好んで読んでて近未来を舞台にしたSF少女小説を手渡されたらびっくりする。米澤穂信日常の謎が好きなのに「ヨーロッパ、魔法」などのキーワードを目にしたら、小市民を目指してくれないのか!となる。わたしもなる。

 これと少し理由がかぶるのだけど、食わず嫌いをしているジャンルというのがあり、その中でもファンタジーとSFは「なんか読まない」となりがち。そして、上で挙げた積読本2冊はちょうどSFとファンタジーである。実際、わたしはファンタジーが苦手だ。魔法とかよくわからない。ハリーポッターに関してはフクロウとドビーがかわいいなくらいの感想しかでてこないし、氷と炎の歌を読むことができるのはドラゴンや魔法の登場が最小限に抑えられていて、ゾンビみたいなのが登場するからだと思う。わたしはゾンビがすごく好きだ。

 もう一つの理由が「買って満足」というもの。たとえば、本屋に行き「これは!」というタイトルと装丁のノンフィクションを目にして買うけれど、テンションのピークは買ったとき、というやつ。うちにある積読本が積まれている理由の一つはこれで、学術書や翻訳小説はそんなに数が出回らないので、買い逃すとやばいからなるべくすぐに買うようにしている。実際、いまわたしはトニ・モリソンの『ビラヴド』を買い逃して後悔している。いま読みたいのに!「翻訳でたんだ!わーい!」と買い、その後放置したりするけど、いつかその時のために置いてあるのだ。あと、特に学術書なんてそんなにポンポン読めるものではないし、自分の研究分野以外の学術書は後回しになりがち。

 最後に、わたしが本を積んでしまう一番の理由はフィジカル面からが大きい。重い本は持ち歩けないから電車で読めないし、自宅で読むにも辞書みたいだから身体的に辛い。ページを手で押さえるだけで結構疲れる。アイン・ランドの『水源』とか筋トレだと思う。だから文庫が好きだし、京極夏彦は面白いけど意地悪だなと思っている。文庫なのに1000ページ超え!なぜ2冊に分けてくれないのか!コニー・ウィリスの『ブラックアウト』や『オール・クリア』はなんて親切なんだと思う。じゃあ、買わなければいいのでは?と言われると、京極夏彦は売れっ子だから大丈夫だろうけど、分厚くて重い翻訳小説とか買い逃すと図書館に頼る以外なくなり、いまわたしは図書館を頼れない状況にいるので、以前よりいっそう買わないという選択肢はない。

 「読んでない理由」についてしゃべるという大変積読会っぽい話をする一方、やっぱり、勝手に相手にこれを読んでほしいなどと言い出しはじめ、わたしは前回『亡命ロシア料理』、今回『スパイのためのハンドブック』を勧められたので自分で気が付かないうちに冷戦時代感を出しているのかもしれない。

 とりあえず、メモ用に話に出た本を不十分だけれど思い出せる限り載せとく。

 

文庫版 ルー=ガルー 忌避すべき狼 (講談社文庫)

文庫版 ルー=ガルー 忌避すべき狼 (講談社文庫)

  • 作者:京極 夏彦
  • 発売日: 2018/10/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

折れた竜骨 上 (創元推理文庫)

折れた竜骨 上 (創元推理文庫)

  • 作者:米澤 穂信
  • 発売日: 2013/07/12
  • メディア: 文庫
 
折れた竜骨 下 (創元推理文庫)

折れた竜骨 下 (創元推理文庫)

  • 作者:米澤 穂信
  • 発売日: 2013/07/12
  • メディア: 文庫
 

 

 

世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR (角川文庫)
 

 

 

 

 

野村證券第2事業法人部 (講談社+α文庫)

野村證券第2事業法人部 (講談社+α文庫)

  • 作者:横尾 宣政
  • 発売日: 2019/07/20
  • メディア: 文庫
 

 

 

YKK秘録 (講談社+α文庫)

YKK秘録 (講談社+α文庫)

  • 作者:山崎 拓
  • 発売日: 2018/08/21
  • メディア: 文庫
 

 

 

喰いたい放題 (光文社文庫)

喰いたい放題 (光文社文庫)

  • 作者:色川 武大
  • 発売日: 2006/04/12
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

楽園のカンヴァス (新潮文庫)

  • 作者:原田 マハ
  • 発売日: 2014/06/27
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

輝く断片 (河出文庫)

輝く断片 (河出文庫)

 

 

 

 

 

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

 

 

 

大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))
 

 

 

無冠の男  松方弘樹伝

無冠の男 松方弘樹伝

 

 

 

ハーレクイン・ロマンス (平凡社新書0930)

ハーレクイン・ロマンス (平凡社新書0930)

 

 

 

 

 

向田邦子の手料理 (講談社のお料理BOOK)

向田邦子の手料理 (講談社のお料理BOOK)

  • 作者:向田 和子
  • 発売日: 1989/05/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

クックズ・ツアー

クックズ・ツアー

 

 

 

 

 

グラタンとかドリアとか

 普段なら朝起きて水を飲んで紅茶をいれて論文を進めようと努力するのだけど、午前中に整形外科にいくので、待ち時間に読む本を見繕う。といっても、病院で新しい小説を読む気にもなれないし、Twitterなども見たくない。かといってボーっとしてると「口答えせずに俺が気持ちよく会話できる手頃な生き物」だと思われてジジイに話しかけられるから、待合室にいる人間を無視できるものが必要。なので、アガサ・クリスティの『五匹の子豚』となにか論文を持っていくようにしていて、今日はおそらく来月から始まるであろう非常勤の授業で読む論文を持っていった。

 わたしの非常勤先の近くには洋食屋があって、ロールキャベツとかフライとかオムライスとかドリアとか、お昼時によく食べにいっていた。多分非常勤先でのランチはこの洋食屋で食べることが一番多いと思う。わたしは近くに住む友人に教えてもらい通うようになった。以前同じ大学で教えていたという人とおすすめの外食の話をした時にもこの洋食屋の話になったので、近くの人に愛されている店なんだと思う。

 町の洋食屋さんなので、あそこで出されるものと似たようなものはおそらく自宅でもできたりするのかもしれない。でも、ロールキャベツもミックスフライもオムライスもドリアも全部自宅で作るのはめんどくさいと思う。しかし、たまにすごく食べたくなる。この非常勤先以外でのわたしの行動圏内にこんなに手軽に行ける洋食屋はあまりないから、結構非常勤が始まるのを楽しみにしていた。けれど、授業は来月から開始されるが、おそらく出校することなく終わるだろう。

 そう思うと、すごくグラタンとかドリアが食べたくなる。ロールキャベツはめんどくさいけど多分作れる。オムライスもそう。これはわたしがめんどくささを乗り越えればいいだけ。わたしは揚げ物を家でしないのでフライへの欲求はあきらめられる。問題はドリアとかグラタンで、冷凍食品だとなんか不満が残り、揚げ物のように「絶対に家で作らないもの」というカテゴリーに入れるほどではない。けれど、ドリアとかグラタンを作るためには普段なら絶対に買わない牛乳とか生クリームとか小麦粉を買わないといけない。あとジャガイモも。普段使わないからどれも残ったら困るやつだ。授業準備をしつつ、家で作るのもなーでもグラタンとかドリアとか食べたいなーと思いながら一日過ごしてた。

プレッパーについて

 最近、プレッパーのことを考えている。彼らはいまどうしているのだろうか?流行病の世界的拡散を懸念して防護マスクや隔離服を大量に備蓄し、家族だけでなく身近なご近所さんに「流行病対策セット」を配っていた女性はうまくこの状況に対処しているのだろうか?プレッパーは、終末に備えて準備する人々のことで、そのまま訳すと「準備する人」となるのだけど実際は「過剰なまでに準備する人」で、おそらく保守的な右派が大半を占めるはずだ。あと、彼らの多くは食料やなんやらとともに武器も用意している。わたしはこの人たちの存在を「プレッパーズ~世界滅亡に備える人々~(Doomsday Preppers)」というナショジオで放送していた番組で初めて認識したのだけど、日本でその存在があまり知られていない割に彼らはアメリカの映画やドラマの中によく出てくる。ディザスターものでやたら色んなものを家に買い込んでいる人とかは絶対にプレッパーだし、ミステリー・ドラマではプレッパーたちのための高級シェルターが実はインチキだったので殺人事件に発展したりする。「エレメンタリー」ではモリアーティは終末に備えて北極圏にさまざまな植物の種を備蓄していたはずだ。少し気にして観るだけでいろんな映画やドラマにプレッパーが出てくる。

 彼らをすごいと思うところは、どんな災難が降り注ごうとも自分は絶対に生き残る側にいようとするところだ。そのためになんでもする。地下に核シェルターも作るし、何千枚ものN95マスクを買い込むし、老後の資金も切り崩す。大災難が訪れた後も抗がん剤を飲み続けられるように、いま手元にある薬をケチケチ飲む。ものすごく本末転倒だと思う。だいたい、「終末」のあとに広がった世界というのはとてつもなく過酷なわけで、それでも生きようとする意志はわたしには分からないし、なんかもう生き残ろうと準備しようとする時点で生命力の違いを感じる。わたしには絶対無理。覚えている人はほとんどいないと思うが、「ウォーキング・デッド」の初期のキャンプのメンバーにアメリカ疾病予防管理センターに残り爆死することを選んだジャッキーという黒人女性がいた。わたしは彼女と同じ側の人間だ。人間っぽくみえるけど人間ではないやつらが襲ってきたり、ついさっきまでともに助け合っていた人が自分を食おうとする人間でない奴に変貌と遂げたり、じゃあ人間相手なら安心できるのかといえば、なんだったらゾンビよりも人間の方が恐ろしかったり、こんな世界やってらんない。だいたい、プレッパーはポールシフトに備えたりするけれど、ポールシフトが起きた後にも生きていたい?というかポールシフトのために備蓄するってなに?なにをするの?だって地球の自転が変わるんだよ?対策なんてあるの?

 あと、終末後の世界を描いた「ウォーキング・デッド」なんかを観ていると、大きな災難の後も生き残るためには人を殺す練習をしておくのが一番なのではと思う。リックやシェーンがすんなりゾンビの世界に適応したように見えたのも彼らが保安官代理だからのように思えるし、ダリルはもともと暴力的な環境にいた。キャロルは被害者としてだけど暴力が日常で、だからこそ途中で人を殺すことの葛藤を抱えるのだろう。あと、元ピザ配達人のグレンはたしか人を殺していない。生き残るために人を殺す練習をするのかと考えると、それは嫌だなと思う。基本的にリックやシェーンのような人を警戒する人間ではいたいが、彼らのようになりたくない。でも、もしプレッパーであるなら、こうした練習は必須であるはずだ。だって、わたしが万が一に備えて用意した食料とか薬とかをほかの生き残った人々が奪いに来るかもしれないのだから。そして、やっぱり、わたしはそこまでして生き残りたくないし、いまどうにか自暴自棄にならないでいるのは図書館や本屋へ行けなくてもどうにか本や論文にアクセスできたり、一週間以上誰とも話していなくても食事の時にNetflixで「ギルモア・・ガールズ」を観たりしているからなのだろうと思う。

「セルフケア」にうんざりしている

 「セルフケア」にまとわりつかれてうんざりしている。感染症が流行っているので身を守るために手洗いうがいが推奨され、こうした非常事態での心身の疲労を軽減するためのノウハウがあっちこっちで書かれて読まれる。在宅勤務になったらワークバランスをどうとるかは課題になるだろうし、それでも通勤を余儀なくされているのであれば感染症対策だけでなくストレスと向き合う方法を見つけたほうがいいのだろうし、四六時中誰かが家にいると家事労働担当者は疲弊するので、自分の面倒を誰かに一方的に負担させるのはやめたほうがいいだろうし、昼間から酒は飲まないほうがいい。

 たとえば、わたしはずっと家で仕事をしてるので、せめて朝起きて夜寝る生活は崩さないほうがいいし、頻度を上げずに野菜とタンパク質が摂取できるように買い物をした方がいいし、スーパーマーケットから帰ったらシャワーに直行した方がいいのかなと思うし、普段は帰宅時に30分くらい歩いてるけどそれがなくなったから少しは体を動かしたほうがいいけれどいまは足を怪我しているからラジオ体操の椅子に座る版でもやっとくべきかとか考える。あと、普段は半分くらいは無視する親からの電話にもちゃんと出て、家族だからお互い気にかけて心の支えとなってる感をだして親密っぽく見える行動をとった方がいいんだろうなとも思う。

 けれど、正直、「ケア」から距離を置きたい。怪我してるから誰かに買い物に行ってきてほしいし、ごみ捨てもやってほしいし、自分で包帯を巻くのは一苦労だ。じゃあ、わたしの世話をしてくれる誰かがいまこの家にいたらどうだろうかと想像すると、ぞっとするし、窓から飛び降りて逃げ出したくなる。わたしはわたしの面倒をみるのがすごくめんどくさいけれど、誰かに面倒をみてもらうのもいやだ。だって少なくともいまのわたしは自分でどうにかできるから。誰かにしてもらったら気をつかう、というか、他人がこの家にいると気をつかうから、多少の不便を我慢する方がずっとまし。

 「ケア」と聞くと逃げ出したくなる理由の一つは、世話をしてもらうとケアテイカーである時に不愉快さがよみがえるからだと思う。基本的に、女性はケアテイカーの役を担わされがちで、単に自分で自分の面倒をみているだけの時にもケアテイカーとしての能力を勝手に測られたりする。毎日自分のお弁当を持っていくことは誰かの食生活の面倒をみることは別だし、わたしがお弁当なのは昼食にコストをかけたくないからだし、自分で自分のために食事を作るけれど他人のために作るのは好きじゃない。

 それと、おそらく女性の方がセルフケアに関していろいろ要請が多い。服装とかスキンケアとか体重管理とか、他人から健やかな人間とみなされるためのたくさんのハードルを乗り越えなきゃいけない。しかし、このハードルの高さはそこそこでなくてはいけなくて、たとえば、わたしが朝顔を洗ってそのまま出かけるといえば紫外線対策の必要性を説かれるだろうけれど、全身ドゥラメール使ってますと言ったら「そこまでしなくてもといわれるかもしれない(高級ラインに関する知識が貧困なので他にもっといいたとえがあるとはずだと思うけど出てこない)。自分で自分をケアする話なのになんで他人が入り込んでくるのかね?

 最近のポップカルチャーでも「セルフケア」がキーワードの一つで、クィア・アイ」とか「ル・ポールのドラァグ・レース」などのNetflixで人気の番組も、鬱々としたラッパーもスターになったアジアのボーイバンドも、全部この要素が入っている。ファブ5はイケてるし、ル・ポールと一緒に「If you don't love yourself, how in the hell you gonna love somebody else?」と唱えてしまうし、メンタルヘルスの問題はだれでもぶつかる問題だ。でも、親切にもセルフケアの大切さを啓蒙してくださると、もういいよ分かってるしやってるよと言いたくなる。そういうの、トイレの後に手を洗わないような人たちに言ったら?

 しかし、うんざりだけど、わたしの面等はわたしがみるので、今日も明日も自分の食事を作るし、朝起きて夜寝るし、怪我した足がむくまないよう足を上げて机に向かうし、慣れない包帯を巻く。

19日目

 朝起きて水を飲むまでは普段通りだけど、今日はものすごくおなかが空いていたので納豆ごはんを食べた。いつも朝は紅茶を飲むが、納豆と紅茶はどうかと思ったのでほうじ茶にした。わたしはほとんど朝ごはんを食べない。数年前に歯列矯正をはじめる前は、納豆とごはんとかパンとハムとかなんか適当なものを食べていた。けれど、歯列矯正に伴い抜歯をすると決まって、やらなきゃいいのにいろいろ検索した結果「ドライソケット、マジ怖い」から固形物を食べられないのでは?とパニックになり青汁やらなんやらを買い込み、抜歯後の経過が順調となった後も買い込んだ青汁は残っていたのでそれがそのまま朝ごはんとなり、いまに至る。だから基本的に固形物は食べない。朝ごはんを固形物でないものに変えてからは、なんとなくたまにおなかが空いたときかホテルに泊まった時にしか食べてない。

 午後、同僚とオンラインでいろいろ相談して、先月まであった「ちょっといいですかー?」がなくなったねと話した。職場にいたときにはよくお互いの仕事の相談を「ちょっといいですかー?」と尋ねあっていて、ああだこうだいっているときに近くの別の同僚が「それはこういうことだ」となんだったら本とか論文とかを手にして教えてくれたりしたのだけど、あの気軽な「ちょっといいですかー?」で得られることが一切なくなってしまって、しかしそれは業務上致命的に困るというわけでもないけれど、困ることは困る。わたしの読書と研究上、困る。

 あと、今日から『LESS』を読み始めた。